昭和41年06月12日 夜の御理解
本当のものではないという、例え話によく、ぶんぶく茶釜が例話にありますよね。金の茶釜と思うておった、それを本当に火にかけたところが、熱くなって、それぞれがしっぽをだしたというわけです。神様が( ? )というところの、お互いがやはりその本当の信心、いわゆる真の信心、を求めて信心をなさなければいけない。だから、私共周囲に様々な問題があったり難儀があったりするのは、やはり一切真の信心を分からせて下さろうとする、御神意意外にないのであるから。
その事を持って真の信心を真、真を本当の事をここから分からせて貰う。そこを追求させて頂くともう答えは一つ。神愛の現れであると言う事なんです。だからそこの所がそういう生き方を持って分からせて頂く、本当のものにして頂く。頭だけではないただ聞いただけではない、本当に分からせて頂く為に私共は本当の修行をさせて貰う。だからあの本当の徳を受けた人達の修行、と言った様なものは撤しております。一つの事なら一つの事でも撤し極めております。私共そうでなからなければいかんと思う。
いかにも本当の物の様にある。けれども何時の間にか、熱くなってくると尻尾をだしておる。そこで本当なものでない証拠だなぁと、先ず自分が悟らせて貰わなければいけん。これでは成程本当の事が分からせて下さる筈がない。頭で分かったって話を聞かれて、そうだなぁと思うておっても本当の事、例えばそういうのが多い。本当に神愛と思い込めないのだ。それで本当の信心をしておかんと、本当の修行が出来ておらんと。
どんな細やかな事でも、責めてこの事だけはとこう思うて修行をさせて頂くなら、それがです本当に私は貫き通されなければ、どんなにそれは言い訳すれば言い訳が出来る様な場合であっても、神様の前には言い訳は届かん。神様の前には言い訳にはならん。そこは貫かせて頂く、やはり信心修行を持って、私は本当の信心修行だとこう思う、ですから成程失敗を致しましてもです。そこは又繰り返しさせて頂く内にです、それが本当に自分のものになってしまわなければ、本当な修行が身に着いてしまわなければ、ね。
例えば本当な事が理屈で、成程神様の神愛であると言う事が分かっても、心の底からそれを神愛と頂けなかったら本当のものじゃない。ね。そこを一、皆さんここんところを本当、真の信心真の信心というけれども、真の信心修行がなされなければ、やり抜かれなければ、ね、又神様に嘘を言う、また神様にご無礼になったと言う事ではなくてです。それも但し信心修行がやり抜かれてこそです。
始めて私はここで頂く所の神愛ぞと、神様の御働きぞと、そしてそれから成程そうだと分かってもです。自分がその難儀なら難儀に直面した時にです、それを神愛として受け取られない。なぜかというと、日頃本当の信心をしておらんから、本当な修行が出来ておらんから、貫き通されておらんから。いかにも本当なもののようであるけれども、ちょっと篤うなってくると、もう尻尾を出しておるような事になっておるから。
いつまで経っても、頭で分かっておっても神愛、神愛として頂く事が出来ない。それではいつまで経っても、いわゆる本当の事に出ることが出来なければ、ね、本当な信心を身に付けて行くことも、だから神様が下さろうとする、本当のおかげも頂けんと言う事になってくるのです。どうぞその為に、先ず私共が、本当なものにならなければいけません。熱かっても苦しかっても、尻尾を出さんで済むだけの、信心にならなければいけません。 どうぞ。